建築家になるまで
小林さんは茨城で、一人っ子として育った。母親は中国の出身で、日本に来て5年ほどで小林さんが生まれている。小林さんは、いつも母親と一緒にいた。小学校に入るまでは友達との遊び方を知らなかった。ひとりで絵を描き、粘土をこねて車やロボットなどを作っていた。
中国にもよく帰っていたので、飛行機が大好きで、ゴミを使った模型もよく作った。
「遊ぶ=なにかを作る、みたいな感じでした」

はじめから建築家を目指していたわけではない。数学と物理が得意で、国語が好きになれなかったので、自然な流れで理系に進んだ。
パイロットに憧れて機械工学の学科も受験したが、実際に進んだのは、手を動かしてものづくりができそうな東京理科大学の建築学科。ひたすらに手を動かして模型を作り、美しい空間を表現した箱を作る毎日を好ましく感じながらも、自分の進む道が本当に建築なのかはまだ決めきれずにいた。
一方で小林さんは、1年生のうちから、設計事務所のインターンに行っている。
――1年生からインターンに行ったのは、自分探しだったんですか。
「自分探しとは思ってなかったです。どんなことやってるんだろうって、とにかく経験してみたうえで判断したかった。やってから判断すれば、自分に言い訳しなくて済むじゃないですか。」
とりあえずやってみる気質は、専攻である建築以外にも及んだ。
東日本大震災の被災地で、企業の商品開発に取り組むインターンにも参加した。宮城県南三陸町に1か月住み込み、企画からデザイン、販売までを担当している。
作ったのは、地元の養殖業の生産物を描いたコースターである。重ねると絵になり、重ね方を変えると海の景色が変わる。

コースターは、想像以上に売れた(実は現在も販売され続けている)。ひとつめが当たったことで、商品開発の領域は、先が見えてしまった。
建築は光も色も扱うので、突き詰めることの裾野が広い。「知りたがり」な青年にとっては、自らの好奇心を満たし続けられる、うってつけの領域である。
もっとも、卒業を控えた頃の小林さんの関心は、違うところにもあった。
自分の暮らしは自分で作れるようになりたい。自給自足の生活がしたい。
そう考え、なんとなく進むつもりでいた大学院をやめて、高山の設計事務所へインターンに来た。
飛騨には、綺麗な水があり、米や野菜が育ち、豊富な森林がある。食べるものだけでなく、家を建てる材料までが地域の中でまかなえる。地域として自立した姿に惹かれて、就職と移住を決めた。
事務所には3年勤めて独立した。もともとは、辞めたら海外に出るつもりだった。けれども高山で木に深く関わるうちに、その世界から離れられなくなった。
日本の木造の技術は世界随一の水準であり、それを極めるのが日本に生まれた自分の使命ではないか、と小林さんは話す。
手がける建物には木造が多く、飛騨は木材産業が根付く土地でもある。
あるとき、工場に持ち込んだ木が、反りすぎ、ねじれすぎで使えないと断られた。
「ねじれて動くっていうのは、木の本来の特性なんです。それをただ人間が活かせていないだけじゃないか、と」
木がねじれる力は、研究ではほとんど明らかになっていなかった。設計の業界では、職人の経験でどうにかするものとして扱われ、数値として捉えられてこなかったからである。
設計するには先行研究だけでは足りない。自分でやるしかないと決めて、大学院に進んだ。
施主とともに「発見」するために、模型をつくる
小林さんが建築家として目指すのは、施主も「自分が設計した」と言えるくらい、一緒に作り上げることだ。その象徴的な道具が、建築模型である。
宮大工から依頼を受けて現在設計を進めている建物は、宮大工と建築家と小林さんの3人で設計してきた。
薄い板(へぎ板)に光を当て、天井裏へシャワーのように光が流れ込むようにした。

へぎ板は、木を裂いて作るもので、施主である宮大工が得意とする技術である。
木は1本ずつ違うから、板が落とす影も1枚ずつ違う。宮大工の技術を、光で魅せる意匠である。
――光で魅せようという発想は、どこから出てきたんですか。
この意匠は、小林さんが検討用の模型を作っていたときに発見したものだった。
「作っていく過程で、この窓からの光の入りがすごく美しいとか、この空間はこんなふうに使えるとか、そういう小さな発見をするために模型を作るんです」
小林さんは、その「発見」を施主にもしてほしいと考える。
「発見するっていう行為を、お客さんにしてほしいから、一緒に作る。提案してもいいけど、本当は一緒に発見したほうが楽しい。建築が楽しいということを伝えたいところもあるんです」
建築は、一生に何回できるか分からないものづくりである。だからこそ施主にも深く関わってほしい、と小林さんは考えている。関わるほど建物に愛着が生まれ、長く使われるからだ。
模型は、その日のテーマにしたいところだけを作り込む。そうでないところは、アルミホイルを貼っただけにしておくことすらある。
たとえば30分の1や20分の1の模型に、9月のこの時間なら太陽はこの角度だ、と光の向きを変えて当ててみせる。そうすれば、光をどこから入れるべきかに、その場にいる全員が気づける。
施主自身が「ここをこうしたら」と言える状態で、話をしたいのである。
京都と高山を行き来して取り組んでいること
いまの小林さんは、事務所のある高山と、大学院のある京都の2拠点で暮らしている。
研究では、自分たちで伐採した木にセンサーを付け、乾燥していくあいだにねじれる力を測っている。1つのセンサーには60キロの力がかかる。人ひとり分の重さである。
木は、育った環境や乾き方などの条件によってねじれ方が変わり、数字で扱いにくい。そこで小林さんは、ねじれる力を実際に測り、どんな条件でどれくらいねじれるのか、その傾向をつかもうとしている。
「大工さんが経験の中で培ってきた技術を、数値で裏づけられるようになれば、伝統建築の技術を次の世代に残す手助けになるかもしれないと考えています」
その先で、自分だけでなく同じように設計する人が使える手法にするところまでを見据えている。大学院では修士課程の一年が修了し、博士課程でも継続して研究を行うつもりである。
建築のほかに、ものを作る活動も行なっている。工事現場のバリケードに天板を載せた大きなテーブルと、大学に捨ててあった突っ張り棒を2本つないだトロンボーンである。


――これは、遊びなんですか、本気なんですか。
「自分の中では、あまり区別していなくて。好奇心の赴くままに、真面目に向き合っている感じですね」
子どものころは、ペットボトルで飛行機を作り、発泡スチロールからハリー・ポッターの箒「ニンバス2000」を削り出していた。やっていることは、その延長線上にあるという。
飛騨の森林を、建築の研究の現場へ
飛騨では、NPO法人活エネルギーアカデミーの事務局を昨年から担っている。
高山に来て山や森の活動に関わるなかで、小林さんは、木という資源が地域の中で回り、限られた圏内で生産と消費が完結していることに気づいた。
教育の場として、これはとても強い。一方で、サプライチェーンとしての文脈は建築学の研究にはほとんど取り込まれていない。
研究の対象になるテーマはいくつもある、と小林さんは考える。たとえば、木材のサプライチェーンとまちづくりを結びつける研究。木の特性を扱う研究なら、ねじれやすい材を建築に使う骨組みの開発にも広げられる。等級の低い材を意匠に生かす開発も、そのひとつである。
事務局を担う立場になるなら、大学を呼び込みたい、と以前から考えていた。
活エネルギーアカデミーの活動で使われていない倉庫を木工の拠点にする改修は、小林さんが立ち上げた計画である。その設計に東京から大学を招き、協働で進めている。
小林さんが倉庫の拠点で目指しているのは、研究が生まれる環境である。
「この地域の林業や木の流通は、建築学の研究対象として十分に成り立つと思っています。大学の研究者や学生が関わって、論文として成果が出てくる場所にしたいんです」
自分自身でも掘り下げたいが、ひとりでは限界がある。興味を持つきっかけがあれば、関わる人は出てくる。
関わる人の意欲を保ち続けることも、いまの仕事のひとつだという。
学生時代、国語を好きになれなかった小林さん。自分が感じたことを自由に書いても、答えと合っていないと減点されるのが納得できなかったからだ。求めていたのは、答えのないことを自分で見つける勉強だった。
その勉強を、小林さんはいま、建築を軸にした日々の実践の中で続けている。
