
伊藤悠貴さんの仕事の多くは、紙の上にある。名刺やパンフレット、ポスター、チラシ、ロゴを作っている。2026年2月に静岡県静岡市から高山に移り、独立した。移ってきた当初、仕事のほとんどは静岡のものだった。半年が過ぎて、いまは飛騨が7割、静岡が3割の比率となっている。
そんな仕事の傍ら、伊藤さんは、NPO法人に所属し、山林の保全活動として山へ入り木を伐採している。デザインの仕事とは、何の関係もないように見える。
――いま、どんな仕事をされていますか。
「グラフィックデザインの仕事をしています。名刺、パンフレット、ポスター、チラシ、ロゴと、主には紙に関するデザインです。たまに写真を撮ったり、映像を撮ったり、キャラクターやイラストを描いたりもします。ジャンルは選ばずにやらせてもらっていて、その中で得意にしているのが世界観づくり、ビジュアル設計です。イベントや事業の顔となるビジュアルを一からデザインし、統一した世界観を設計するのが得意ですね」
イベントの仕事は、一枚で終わらない。ポスターがパンフレットになり、SNSの投稿になる。
「派生したときに、イメージの全体像が崩れないように展開することは、意識しています」
ensōに来るまで
――中学や高校の頃は、どんな学生でしたか。
「中学、高校でいちばん熱心にやっていたのは、音楽のほうなんです。中1くらいから母の影響でドラムを始めたんですけど、中学に軽音部はあまりないじゃないですか。うちにもなかった。近くに貸しスタジオはあったんですけど、中学生に払える金額じゃない。それで、母校の小学校の音楽室にドラムセットがあるのを知っていたので、直談判して。ギターの友達と一緒に学校へ行って、先生、使わせてくれないですかって。それから週1くらいで音楽室に通って、曲を練習したり、YouTubeに演奏動画をアップしたりして腕を磨いていました」
高校を選んだ理由も音楽だった。
「地元で精力的に活動する軽音部がある高校が一つしかなくて。当時そんなに成績が良かったわけではないんですけど、その高校に入るために猛勉強してギリギリ合格したんです。」
ギターの友達も受かった。入部した音楽部で初めてバンドを組み、文化祭のテーマソングとしてオリジナル曲を作ったりMVを作ってYouTubeにアップしたり、精力的に活動した。
10代の頃から一貫して、なにかを作って外に出すことが好きだったのだと、伊藤さんは話しながら気づいたように振り返る。
――絵のほうはどうだったんですか。
「描いてないないことはないんですけど、自分の手をスケッチしたり、迷路を描いたり、漫画を描いたり。人並みか、人よりちょっとノートに落書きしていたかな、ぐらいでしたね」
美術系の大学に行こうと決めたのは高校2年のときで、画塾でデッサンを習い始めたのもそこからだった。本人の言葉を借りれば、遅めの出発である。しかもこのとき、進路の候補はもうひとつあった。
――悩まれませんでしたか。ほかの選択肢は。
「ありました。経営とデザインで、気持ちが二分していたんです。社長をやりたいなとふと思った時があって、会社を経営したいというのと、デザインをやりたいというのと。でも自分のルーツを辿ったら、何か作るほうに必然的に流れていって。いまになって思うと、フリーランスになって一人経営でやっているので、結局は両方うまいことやれているなと思います」
ルーツというのは、父のことである。父は伊藤さんが小学3年のときに独立し、ジュエリーを作る工房を営んでいた。1人でものづくりをしていた父の背中を、自然と追いかけているのかもしれない。
大学を出て、静岡の広告制作プロダクションに入った。外注に出さず社内で完結させるやり方だったので、伊藤さんはコピーも書いたし写真も撮った。時にはコピーも自分で考えた。
――それはもう、グラフィックデザイナーの枠を超えている気がします。ご自身ではどう説明していますか。
「分業する良さももちろんあるんですけど、ビジュアルの全体像を設計するという中でいうと、言葉で伝える部分も、写真で伝える部分も、一貫している必要があると思っていて。その一貫した設計の上にコピーがあり、写真がある。だからコピーも写真も、広い意味でのデザインの一部だと思っているんですね」

会社員6年目で独立した。早い、と言われることもある。前の会社には仕事が降り注ぐように来ていて、こなすことに集中できた。いまは仕事を取るところから始まり、次につながるかどうかも全部自分の責任になる。
「ありがたいことにいただけてはいるんですけど、一回で終わらせずに定期的にいただくことの難しさは、いま感じています」
移住の直接の理由は、妻が飛騨市の会社に転職したいと言ったことだった。大学の1つ上の先輩が高山に住んでいて、いいところだと聞いていたことも重なった。ただ、伊藤さんが自分の理由として挙げたのは3つ目だった。
「飛騨産業さんのショールームの2階に、飛騨高山の林業の歴史と、その林業に飛騨産業さんがどう関わってきたかを紹介する展示があって。それを見たときに、飛騨の森林って面白いなと思ったんです。森林と人がどう向き合って、どうプロダクトに落とし込んで、ブランディングして、それが巡り巡って飛騨の地域や自然にどう還元されているか。その視点が面白くて、直感的に、林業だけに閉じていない、飛騨の森林との向き合い方って面白そうだなと」

考える時間と、手を動かす時間
――静岡での6年で、いちばん印象に残っている仕事は。
「しずおかコピー大賞という、年に1回の公募展のメインビジュアルですね。静岡で活躍しているデザイナーや、重鎮と言われる方が代々担当してきたもので、そこに指名をいただいた。静岡のデザイナーとして一つ認められたんじゃないか、という気持ちもありました。それだけプレッシャーもあるので、中途半端なデザインは作れないなと。労力をかけて、人をあっと驚かせるものを作りたいと思っていました」

伊藤さんが向き合ったのは、才能という言葉だった。この抽象的な言葉を、どう一枚の絵にするか。
――そこからスカートの広がりに行き着くまで、何段階あったんですか。
「才能というものをどう表現するか、迷っていて。いくつかの案を行き来する中で、直接的すぎず、才能をなにか別のものに例えたいと考えました。才能が開花するということだから、花はどうかと。でも花もちょっと直接的すぎるかなと思って」
開くものを探し直しているときに、傘が開いているデザインを見つけた。花が開くことと傘が開くことは似ている。とはいえ傘だけでは伝わりづらい。才能が宿るのは人である。それなら人が開く形にしたほうがいい。
行き着いたのが、真上から見下ろしたスカートが広がる瞬間の写真だった。橋の上から撮った。モデルは当時の恋人で、いまの妻である。
発想の手順には型がある。テーマから連想する言葉を書き出し、共通項を探す。才能から花へ、花から傘へ、傘から人へと辿った道筋は、その型の上にある。
――依頼を受けてから納品するまでを10とすると、手を動かすのはだいぶ後のほうですね。考えている時間はどのくらいですか。
「5くらいだと思います。ずっとコンスタントに考えるよりは、考える時間をまとめて作って、一度置いて、もう一回考えて、徐々にブラッシュアップしていく。それまではパソコンも開かないです。紙とペンですね」
――どこで考えるんですか。
「アイデアを考えたいときは、なるべく自分のテリトリー以外の場所やものを見たいと思っていて。僕の場合、そういうところからインスピレーションが出てくることがあるんです。いつもと違う空間で、自然や外を見ながら、ぼーっとしながら考える。逆に、落とし込む作業に入るのは、自宅の方が効率的ですね」
山に入るのも、この延長線上にある。
伊藤さんはいま、NPO法人活エネルギーアカデミーの活動で山に入っている。生えすぎた木を間引いて山に光を入れ、切った木や枝葉を製材所や加工業者へ運ぶ。運んだ木が生む利益は、地域通貨の「エネポ」として作業に関わった人に戻る。

「木材が地域の中で循環して、それがお金に代わる価値になり、人のつながりにも還元していく。林業を通じた美しい循環が、飛騨高山のまちの中に出来ていると感じています」
――山に入ることは、デザインの仕事に返ってきていますか。
「ずっとパソコンの前にいるだけだと、アイデアもいいデザインも作れないなと思っていて。世界がパソコンの中にとどまってしまう。まったく違う世界に入って森林と対面することが、インスピレーションのきっかけになる。それに、体を動かして自然と向き合うことは、デザインの仕事とかけ離れているからこそ、その経験や知識が、デザイナーとしての厚みになると思うんです。」
「AIでの創作が一般的になる中で、何を作るかじゃなくて誰が作るかが重要になってくる。そこで、自然と向き合う体験価値を持つ人間の需要は高まってくると思います。山に入るという超アナログな行為にこそ、デザインの本質はあるんじゃないかと思いながら、活動しています。」
これからの使い方
――ensō では、どんなふうに仕事をすることになりそうですか。
「おそらく、アイデアを練る時間に使うほうがいいかなと思っています。作業するのは家とか、自分のテリトリーで」
もうひとつ、伊藤さん自身の経験から出た言葉がある。
「僕も何も知らないまま県外から移住してきて、横のつながりを作るのが楽しい反面、大変なところももちろんあったので。フリーランス同士で意見交換ができるスペースがもうすでにあるというのは、いいところだなと思うんですよ。僕は地域の祭りだったり、いろんなイベントに孤軍奮闘で顔を出して、なんとかつながりを作ってきたので。それがすでに集まっている場があるというのは、これから移住を検討する人からしたら、人脈を作るのには適した場所なんじゃないかな」
これからやりたいこと
仕事では、森や木に関わるものを増やしたいと考えている。山に入って蓄えているものを、そのまま仕事に返したいということである。
音楽も、こちらで再開したい。静岡で組んだバンドは、伊藤さんが飛騨に移り、メンバーも別の地域に移ったことで、ほとんど活動できないままになっている。イベントを企画するのは柄ではない、と言いながら、演奏する場があれば出たいと話した。
飛騨に来てから、伊藤さんは仕事の肩書きを先に出さないようにしている。
「デザインやってます、というのを前面に出すんじゃなくて、伊藤悠貴という人間をまず知ってもらって、認めてもらう。そこから仕事が回ってくることが、ありがたいことに少しずつ増えてきました。地域の人に認めてもらうことが、仕事だけじゃなく、いろんなことにつながるなと思います」
はじめての古川祭りにも、今年、褌を締めて参加した。飛騨の仕事の比率が7割まで来たのは、そのような地域活動への参加の結果もあるのかもしれない。
「そういうのが好きなんだなと自分で自覚し始めてきたので、これからも意識して外に出ていこうと思っています」

