――いま、どんなお仕事をされていますか。
「コンサートやイベントの制作です。企画する人がいて、その人を手伝う形で、当日の本番までを迎える。それを”全部”やる仕事です」
全部というのは言葉のあやではない。必要なものは全部だと本人が言う。
フリーランスである相馬さんの仕事には、ポートフォリオというものがない。個人名を出してやる仕事ではないためだ。

――初めて会った人に職業を聞かれたら、なんと答えていますか。
「言ってしまえば、事務なんですよね。なかなか仕事内容を理解されづらいのは、フリーランスだからというのもあると思います。フリーランスで事務だけでどうやって食べているのか、という感じなんだと思います」
相馬さんは、自分の仕事をひと言でいえば事務だと言う。
「その事務をやるベースとして、業界の体制だったり、文化だったりがあります。そもそも芸術とか音楽というものへのリスペクトがないと、できない仕事だと思うので」
高山に来るまで
相馬さんは富山で生まれ、小学校まで富山にいた。中学から埼玉に移っている。
小学生のうちに出た性分がある。運動会の競技の配置図をパソコンで作っていた。それまで先生たちが手書きで作っていたものである。
――効率を大事にするタイプなんですか。
「効率は結構大事にします。ただ、文化や芸術は効率だけではないところがあるので、そこには時間をかける。それ以外の省けるところはどれだけでも省きたい、という感じです」
中学に上がってからは、文化祭と体育祭のどちらでも実行委員をやっている。
やはり、手を動かす側というよりも、回す側である。中学は音楽に力を入れた学校で、相馬さんは選抜の合唱団に入り、中学の代表として大会に出ている。
高校の進路を決めるとき、音楽系のコースに行く選択肢があった。相馬さんはそれを外している。
――音楽をやりたかったのに、音楽のコースを選ばなかったのはどうしてですか。
「今ここでプレイヤーになると決めてはいけないと思っていました。そこに行くと、大学も音楽系に限定されてしまう、と」
15歳の判断としては、ずいぶん先まで見ている。
進んだのは、国公立を目指すクラスがある進学校だった。進路を考え直したときには芸術大学も見て回ったが、しっくり来なかった。どこもプレイヤーを目指す場所だったからである。
「自分がプレイヤーではない」という意識は、10代の頃からずっと持っていたという。

高校生のころの相馬さんは、数多くのコンサートに足を運んでいた。特定のアーティストを追いかけるのではなく、コンサートという場そのものを見に行っていた。「仕事にするならこれだ」と考えたとき、テレビ番組のプロデューサーとして働く親族にも相談をしていた。
エンターテインメントの業界は、コネがないとしんどい、と聞かされた。
――高校3年で、その話をどう受け取ったんですか。
「じゃあ、どうやってコネを作るのかとなったときに、現場に早く入れるところがいいんじゃないかと」
高校を出てすぐ現場に入る道は、初めから考えていない。相馬さんによれば、当時のエンタメ業界は、進学していない人をほとんど採っていなかった。
ただ、大学は座学が多く、現場には出られない。専門学校なら現場で働いている講師が教えに来るし、実習のような機会もたくさんある。
相馬さんは音響の専門学校を選んだ。
在学中から、講師の現場にアシスタントで入った。
相馬さんが研鑽を積んだのは、ライブハウスから屋外の祭りのステージまで、数えきれないほどの現場だった。初めは当日だけ入るのが基本だったが、任される範囲は増えていった。
「現場でテキパキ動いていると目立ったようで、こういうこともお願いできないかなと頼まれる。そういった依頼が、ぽろぽろ出てくるという感じでした」
東京JAZZ は1年生のころから手伝い、卒業した後も、大きな開催がなくなるまで関わった。日本を代表する大型フェス「VIVA LA ROCK」 には、始まったばかりのころに外部講師のつながりで入り、準備日から本番までの現場を担った。
ただ、大きな興行の仕事は、面白いとは思えなかった。
「普通のコンサートの仕事は、開催するまでにやることの型が決まっている。それをこなすためのコマだなと思って」
専門学校の1年目が終わろうとするころ、別の種類の仕事が来た。
それが、いまも関わり続けている、東京都が主催する子ども向けの文化体験事業「キッズ伝統芸能体験」だった。
伝統芸能の知識があったわけではない。初めはかなり勉強したという。ただし、まったく縁のない世界でもなかった。
「富山にいたときは、祖母が伝統芸の世界にいて、自分も小さいころはお稽古を受けていました。だから抵抗感はなく、全然知らない界隈でもないし、リスペクトもあるし」
――そこに行き着いたのは、自然な流れだったんですか。
「来るべきところに来たな、という感じでした」
高山との縁は、これとは別の事業から生まれた。キッズ伝統芸能体験の主催団体のひとつである芸団協は、日本遺産の地で伝統芸能のライブを行う「NOBODY KNOWS」という事業も手がけていた。
その公演を、高山にある国の重要文化財「日下部民藝館」でもやってほしいという連絡が入った。地域側からのアプローチがあるのは珍しいからと、下見に行ったのが最初だった。

当時は、高山がどこにあるかも知らなかったという。
そこから仕事で通うようになり、コロナ禍で東京にいたくないと考えたときに、高山に拠点をもうひとつ置くことになった。
いま相馬さんは、高山にメインの拠点を構えながら、全国の公演現場を飛び回って働いている。
最悪だけを先に考えておく
「コンサートや芸術イベントの制作」という仕事の中身は、なかなか外からは見えにくい。相馬さんの説明によると、おおよそ次のような順序である。
依頼が来る時点で、どこで何をやるかはすでに決まっている。
相馬さんはそこに入り、こうしたらもっと良くなるという提案を足す。進行表と資料を作る。
宿泊を伴う公演なら、出演者の宿と弁当と移動を手配する。旅行会社に任せられる案件はそこに投げるが、そうでなければ全部が制作の仕事になる。
当日は出演者のアテンドをして、必要なら場内アナウンスもする。来場者がどう入って、どう動くかも設計する。
次の回がある事業なら、次にどうするかまで考えて終わる。

――高山にいながら、その仕事をしているんですか。
「基本的に、準備段階はリモートでできるんで、コンサートの仕事は」
準備は飛騨からリモートで進め、公演の当日は、会場のある全国各地へ出張する。
同じ制作でも、会社に所属している人とは範囲が違う。
「会社に入って同じような制作の仕事をしていても、分業されていて、担当領域が決まっている。私はだいたい全部、一人でやれって言われれば、ある程度のことはできる」
できないところは、必要に応じて人を入れる。
「プロフェッショナルなデザインが必要な場合は、デザイナーを入れる。ある程度の、それなりのことをやれって言われれば、大抵のことは自分でやる」
この「それなりのこと」の範囲は、コンサートの制作と聞いて思い浮かべるより広い。最近も、ある公演の特設サイトを自らの手で軽々と作っていた。
企画に意見を出すかどうかも、相手を見て決めている。
――企画そのものに意見を出すことはありますか。
「プロデューサーと呼ばれる人に確固たる意思があるときは、あまり言わないです。もうこれでいくんだという意思があるなら。逆に、持ってきた人がふわふわしていたら、どこまでも言っちゃいます」
――当日起こる不測のトラブルには、どのように対処していますか。
「トラブルは、原則起きないんです。というのも、トラブルが起きたらどうするかのマニュアルは必ず作るんです。考えられるトラブルを全部挙げて、そうなったらどうするかを決めておく。それで、だいたい起きないんですけど、起きたとしても、もともと決めてある中で収まる。対応策が分かっているから、拾うだけです」
起こりうることを全部挙げるとなると、いくらでも出てきそうに思える。どこで切っているのか。
「一番ひどい例で考えます。ワーストだけですね」
ゼロから想像するわけでもない。イベントには過去の事例がたくさんある。機材のトラブルがあったから対策を考える。屋外なら天候をどうするか決めておく。
そうやって、起きたことの蓄積から拾っていく。

当日に相馬さんが焦っていないわけではない。本人は、当日もかなり焦っていると言う。ただ、焦る対象が現場で対処できる範囲に収まるように、先に片づけてある。
彼女の冷静さは、持って生まれた性格だけでなく、膨大な現場経験の積み重ねと、周到な準備によるものなのだ。
これからやりたいこと
いま動いているもののひとつに、飛騨で暮らす70代以上の人に話を聞いて、記録に残していく活動がある。
きっかけは、以前、90歳の方から昔の話を聞いたときのことだった。
「昔こういうことがあって、という話がめちゃくちゃ面白くて。でも、こんな面白い話が、私が聞いただけで終わってしまう。もったいないなと感じたことがあったので」
10年かけて100人に話を聞く、という構想は、相馬さんが言い出したものだ。飲みの席でその話をしていたら、一緒にやる、と言う人が現れた。高山市国府町で民藝店「やわい屋」を営む、朝倉圭一さんである。いまは朝倉さんを中心に、相馬さんを含む有志数人で進めている。
対象は、決して有名な人ではない。飛騨で生活を営む、市井の人である。できるだけ昔の記憶から現代までの軌跡を残したいので、70代以上の方を中心に話を聞いている。飛騨でいろいろな話ができる人が、意外にあっけなく亡くなってしまう。その前に聞いておきたい、というのが相馬さんの考えである。
この活動に予算は付いていない。それでも、いまのうちに書き溜めておく、というのがかれらの判断である。
制作に、対価がつくまで
――これから何かを企画したい人に、最初に知っておいてほしいことはありますか。
「やっぱり、はじめはボランティアのように思われてしまうことが多いんですよね」
相馬さん自身、飛騨で最初に関わった仕事はじつは無償だった。芸能系のイベントに顔を出し、手が足りていないので手伝う、という形で続いた。
それが仕事に変わったのは、相馬さんが言い出したからではない。次からは払う、払わないといけないと思う、と依頼した側から言われている。制作が、プロフェッショナルな仕事であると認められた瞬間だろう。
公的な文化事業では、どうしても人件費が削られやすい。相馬さんのように、領域をはっきり定義しづらい関わり方であれば、なおさらだろう。
「文化や芸術に、潤沢にお金をかけるのは難しくなっているのかもしれません。人件費の枠は一応あるんですけど、人的なコストはできるだけ抑えたいという意向が強いので」
それでも相馬さんは、時には使える補助金を探すところから手伝い、企画を本番まで運ぶことに力を尽くしている。

もうひとつ、相馬さんが気にかけていることがある。伝統芸能や舞台芸術の制作では、自分がずっと最若手のままで、下がいない。
育てないと続かないところまで来ている、という危機感である。
飛騨で企画を形にしたいけれど、どう進めればいいか分からない、制作を頼める相手を探している人がいたら、彼女に声をかけてみてほしい。
企画を支える側に立ち続けてきた人は、飛騨の昔の話にも、これから始まる企画にも、同じように耳を傾けている。
